今までの道のり

幼少期から学生時代

小さい頃から色んな人・価値観と触れ合うことが好きだった。
海外旅行にも連れて行ってもらい、様々な人種の人々とコミュニケーションする楽しさをずっと感じていた。

生まれが兵庫県神戸市という土地柄、小学校でも外国からの転校生が少なくなかった。
アラビア語などの言葉も到底分からないまま、アラビア人のお友達のバディを頼まれて困り果てた経験も。
リコーダーの吹き方や宿題のやり方を身振り手振りで伝え続けることで段々とお互いのことが理解できるようになってくる感覚。
他のお友達との仲を取り持つような事もあったように記憶している。


いずれも、とても達成感を感じられる経験だったと思う。

昔は私はとてももの静かな子供だった。
どちらかというと周りを一歩引いて俯瞰して見ていたような子供だった。
グループでキャッキャ楽しそうにしているお友達を羨ましいなと思いながらも、自分が頑張って入ってみても馴染めない。
一人っ子のせいか友達との距離の取り方がつかめない。そんな子供。


ただ、リーダーシップだけは昔からあったようで学級委員とか、リーダー的なポジションにつくことが多かった。

はじめての場所では、数ヶ月は自分の立ち位置や人をじっくり観察し、どのポジションに自分がつくのが一番良いかを考えていることが多かった。

小学生から大学生まで、友人関係にはずっと悩み続けていて、あまり得意ではなかった。そのためよく衝突もしたし、いじめること・いじめられることの経験もした。


思ったことを良くも悪くもすぐに口から出してしまうクセ、思い立ったらすぐに考えるよりも動いてしまう性格のため、仲の良い友人からのあだ名は“爆弾”とか“破天荒”だった。それでも、学生の間は、友人関係も選べたし、合わない友人とは関わらないことも選べた。何となく、人間関係で衝突が多いのは自覚していたけれど、人生にそこまでの影響がないと思っていたし、毎日楽しければいいのよ、という考えだったので学生の間はそこまでコミュニケーションの重要性を感じていなかった。

社会人

まずは営業として独り立ちするために新人研修というものがあるが、そこでは新人が泊まり込みで寝食を共にしながら勉強する。
その時のトレーナーには“地雷ちゃん”と名付けられた。
でも、顧客にいきなりぶちかます感じで行くのがそのような名前の由来だとか。
私、どこまで行っても地雷とか爆弾とか言われるやん・・・と内心ちょっと落ち込んだりもした。社会人で初めて親元を離れて知らない土地で一人暮らし。
不安で不安で、すぐに辞めようかと思った会社も、優しい上司や同僚に恵まれて気づけば仕事って楽しいな、仕事で美味しいものが食べられて(当時は接待というものが存在していた)、営業成績もよければ自分のボーナスに跳ね返ってくるなんて何て恵まれた仕事!と心から楽しかった。
しかもその土地で一生の友人に出会えたのも仕事を通してだったので、とても幸せだったし恵まれていた。


ただ、営業という仕事柄、顧客は選べないし、会社の同僚や上司も選べない。
もし、嫌だと思う人が仮にいたとしても、話さないわけにはいかないし、それだけではなく仕事として結果を出していかなければならない。
その時に必要なのは、紛れもなくコミュニケーションで、コミュニケーションがうまくいけば全てがうまく回ることに気付いた。

その後、思い直して病院の薬剤師に転職するも、私は一処にとどまるのが苦手な性格だと気づき1年で退職。
自由に動きまわれる仕事が向いていると心底気付き、また同じ会社に幸運にもお世話になる事になった。

結局、会社勤めを10年以上経験し、それなりに酸いも甘いも経験してきた。

会社勤めによって、守るべき規律や縦の関係・横の関係を知り、様々な経験ができた。
私を一回りも二回りも成長させてくれた。本当に会社に勤めて良かったと心から思っている。

そんな会社勤めだが、ずっとこのままこの会社にいて私の人生は良いのだろうか?と考え始めたのは子供を産んでから。

当時、時短勤務というものが存在し、営業でありながら営業成績は問われない働き方ができた。
5時間勤務というものが最大3年間可能だったため、私はその制度を最大限に利用させていただく事に。

営業成績が問われないということは、責任がないと言えば楽に聞こえるが、やってみると、色々と、本当に色々と考えさせられるようなことを経験した。

外資企業の風潮で意見は積極的に述べないと評価はされないし、意見がないということは即ち考えていないと受け取られる。


この時も、コミュニケーションにより、よくも悪くも自分の立場や居場所を確保できるか否かという状況だった。

私ってなんなの?ここに存在している意味あるの?と自問自答していた時期もあった。
会社は弱い立場の者を守ってはくれないんだなー、自分の足で立つしか方法はないんだなーと理解した。当たり前だけれど。

心を押し殺してただひたすらに仕事に邁進すればいいの?
同僚を見返してやるという意気込みで毎日気合入れて髪振り乱して仕事も家事も子育ても両立すればいいの?
でもそれって本当に楽しい?幸せ?

今思えば、この時期があったからこそ仕事とは何か、自分の人生とは何かを深く考えることが出来たのだと思う。

ただただ、子供は可愛く、この子の面倒を見る時間が減ることだけは考えられなかった。私の中の優先順位の一番はいつもクリアだった。

その後、数字を持つ時短勤務になり、仕事でのストレスはかなり軽減された。自分の数字があるということはこんなにも自分を守ってもらえる材料になるんだと安堵した。
良くも悪くも全て自分の責任。

人の数字を持つということは失敗は許されないということ。
数字を上げればその担当者が評価されるので良いが、下げてしまうと疎ましく思われるのは紛れもない私。

営業はわりと自由時間が多いので自分の裁量で1日のスケジュールを決めることができる。
また、エリア全体の数字を把握してどこで数字を出そうとかここは捨てるなど取捨選択が可能である。
なので、自分で全体の数字をコントロールして販売目標をどうやって達成しようかと考える。
即ち、自分の数字がない時は、その本来なら捨てる施設であったとしても担当することになれば数字は上げなければならないし自分で決める事もできない。

たまにはゆっくりカフェで内勤しよう、とか、美味しいランチを食べよう、なども自由だが、5時間勤務だった時期は何をするにも誰かの目を気にしてしまい、葛藤していた。
そういう葛藤が自分の数字を持つことで全て解消された。
解き放たれた感覚。

ただ、数字を追うことに快感を覚えていた時期も確かにあったが、再び数字を持ち始めてからは少し考えが変わっていた。

薬を売る仕事というのは、見えない患者さんに薬を届けるということ。
実際に患者さんの顔を見なくても、私が提案した処方を医師が行うことで患者さんに影響を与えるという事。
患者さんの話を詳細に聞く事も多く、どうしても感情移入する場面も多かった。


例えば、家庭環境や仕事場でうまくいかず朝起きるのが辛くて外に出ていけなくなり心療内科・精神科に通い出した方々。
例えば、小さい頃からADHDという疾患のために(そのような傾向を持ち合わせているために)、親や先生から怒られすぎて、怒られないためにひょうきんな性格を前面に出して笑顔でいる子供たち。

みんな、必ず理由がある。

ただ、そういう患者さんに薬を通して貢献できることは素晴らしい事だとずっと考えてきた。

その考えは今も一部では変わらない。一部ということは、大部分は変わったというわけだけれど、その理由は以下のようなものがある。

①そもそもなぜ人は病気(病気に至らずともそれに近い状態)になるのか?遺
伝的、生活習慣、生活環境など言われてはいるが、本当にそれだけなのか?
②飲んでいる薬の量が多すぎるのではないか?
③医療の現場・現状を見てみると・・・本当にその治療は必要?
④西洋医学だけでは解決できないこともあるのでは?

例えば、死ぬか生きるかの瀬戸際を彷徨っているような患者さんや怪我をして
骨折等してしまった場合には確実に外科的治療は必要である(当然手術等に必
要な薬剤も)。


また、精神疾患等により自傷行為や自殺の可能性がある場合やそれに準ずるような行為を行う可能性のある場合など。
他にも、どうしても必要だろうという治療も存在するし、実際に薬を飲む事でプラセボ効果なども影響し良い影響を与える場合もあることは理解している。

しかしながら、それら以外で、風邪などでの投薬や○○疾患と名前がついていないのにも関わらず予防という観点で薬を飲む機会も多いように思う。
ワクチンにしてもそうである。

そもそも。そもそもの話になるが、私たち人間には自浄する力が備わっており自己免疫機能が存在する。
ガン細胞だって人間の体の中で毎日作られているが、免疫機能が正常に作用していればその細胞は消滅していく。
風邪の症状にも理由があり、鼻水には細菌等を体外に排出したり不要な物を体の外に排出する重要な役割がある。
熱が出るのも、免疫が頑張ってくれている証拠であり、体内温度を上げる事で自分の体から悪い物を出す機能が働いている。

そういう当たり前の自分の体の免疫システムを信用せずに解熱剤を飲んだり鼻水を止めようとしてしまう。
目に見えるものだけを信じて見えない物には目もくれない。

果たしてそれで良いのでしょうか?

私は、自分に子供が生まれてから、全ての物事において、子供にはそれが本当に良いのか/良くないのかという観点で見るようになっていった。

子供の健康に関して;離乳食に始まり、ワクチン接種、普段の食事、病気、薬など。
他にも子育てでの困りごとには事欠かないが、医療という観点ではこの辺り。

医療に関しては様々な利権が絡んでいる事もあり、公に言える事/言えない事も多々あると思う。
ただ、自分の娘を守れるのは自分や家族だけ。特に小さい頃は訳も分からないまま親のされるがままに生きるしかない、か弱いいのち。

様々な本を読みあさり、勉強したりして自分なりの知見を得てきたつもり。


メディアの情報を鵜呑みにすることがどれだけ危険か。知らず知らずのうちに実は様々な洗脳をされてしまっているのではないか。

そういう観点で今の医療を見てみるとこの薬って必要?とか、この医療は正しいのだろうか?と疑問が湧いてくる。
こういうことを分かっている人もたくさんいて、その人たちはその人たち同士で「うん、そうだよね。大丈夫。」と繋がっている。

公では言わない(言えない)事も分かっている同士なら安心して話せる。

今、二極化とよく言われているけど、最近本当にそう感じてしまう事も多い。
同じ日本語を話しているはずなのに会話が全然耳に入ってこない事もあるし、話している波長が違いすぎると見える世界も違うので、見る視点が異なっていれば、やっぱり話が噛み合うことはない。どこまで行っても平行線。

情報過多な時代なだけに、自分が得る情報も様々であり、どの情報を得るか・どの情報を信用するかというのも自分自身の選択に懸かっている。
きちんと自分の考えを明確にしていないとすぐに波に流されて思ってもみない方向に到着してしまう。情報の波も早いのでしっかりと地に根を張り巡らせて立っていないと流されて流されて、「あれれ・・・?」気づけばここどこ?状態。

NLPに出会ったきっかけ

初めてNLPに関わったのは就活の時。
アンソニー・ロビンズさんの「一瞬で自分を変える方法」(本田健さんが訳をしていたので手に取ってみたのがきっかけ)。
自分が人生をどのように生きたいのかを真剣に考える分岐点に立ち、自分の人生を振り返りつつNLPに出会った。
そして、私は将来、独立したいという夢を抱いた。
そのためにはまず社会でスキルを磨かなければ、と会社に就職することを選んだ。
そのまま年月は過ぎ、日々忙しく仕事をする日々の中で、自分の夢のことはおざなりになっていき、記憶も薄れかけていた。

そうこうしながら、結婚・出産を経て、資本主義バリバリの世界にどっぷり浸かりながら、自分は将来どうなりたいのかをまたぼんやりと考えていた。
会社にいる女性の先輩、上司、役員など見ていく中で女性としてのキャリアを考えるようになった。
ロールモデルを探していくうちに、「求めるキャリア像が周りにいない・・・。」と気付いた。


その理由をなぜ?と自問自答してい区ことで、自分が望むことにたどり着いた。
男性社会(競争社会)の中で女性の活躍と掲げられており、その土俵で女性は頑張ることを強いられる。
本来、女性は、外で競争するよりも仲間同士で繋がってその場を守ることに長けている。
しかし、競争の中で、日々戦うことになると、やっぱりどこかに歪みが生まれてくる。
生理が止まった、肌荒れが治らない、休日はひたすら寝ている。
このような、同じような声をたくさん聞いた。

家庭がうまく回らない、はたまた会社でダブル不倫している、いつも精神的に不安定、など、あげればキリがないけど、目にみえる状態で歪みが出てきている。

果たして自分は会社で上昇志向を持ってなりふり構わずやり切ったとして。本当に幸せを心から感じられるのだろうか?
そんなことを考えながら淡々と日々を送っていた。
そもそも、就職する時に、会社でお世話になろうと思った理由は“自分の成長”のため。
コミュニケーションスキル・プレゼンスキルなど、私に必要なスキルを効率的に得たいと思ったから。
その後は漠然と“自分”を売りにして“自分のビジネス”をやっていきたいと考えていた。


“好きな時に好きな場所で好きなことを“をモットーに。
そうやって生きるためには、やっぱり相手(クライアント)に必要とされる存在にならなければならない。
自分がやりたい事だけやっていては、今の社会では目に見える形での報酬はもらえない。
つまり、今の資本主義社会では、自分が社会に対して貢献した分のお金をもらうというシステムになっている。
ということは、“自分”を売っていくためには、“自分”がどれだけ世のため人のために貢献できているかにかかってくる。


“自分が好きでしたい事”と“社会の役に立つ事”のバランス。
このバランスって、本当に難しく、どちらかに偏っても歪みが生じて自分が辛い思いを抱えることになる。
“自分の人生を生き切る“と言葉ではカンタンに言えてしまうけど、真剣に生きるということがどれだけの事なのか。
自分ととことん向き合うと。一分一秒がもったいない、無駄にできないと生き急いでしまう。

ちょうど、就活の時に自分の人生を考えている時に出会ったアンソニー・ロビンスさんの本を思い出し、読み返した。

それが私が出会ったNLPの最初の一冊であり、10年以上忘れていたけれど、実は就活の時に熱心にNLPのことを勉強していたことを思い出した。

それから、本格的にNLPを学びたいし、人生に活かしたいと真剣に考えるようになって資格を取り、今に至る。